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福原 (神戸市) : ミニ英和和英辞書
福原 (神戸市)[ふくはら]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふく]
 【名詞】 1. good fortune 
: [はら, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation
: [かみ]
 【名詞】 1. god 
: [と]
 【名詞】 1. door (Japanese-style) 
: [し]
  1. (n-suf) city 

福原 (神戸市) : ウィキペディア日本語版
福原 (神戸市)[ふくはら]

福原(ふくはら/ふくわら)は、古くは平清盛を中心とした平氏政権福原京で知られる地名である。平安時代には現在の兵庫県神戸市兵庫区荒田町・平野町から神戸市中央区中山手通にかけての地域を中心として福原荘が存在し、荘園の中に福原京が置かれていた〔『兵庫県の地名』1(日本歴史地名大系 第29巻, 平凡社, 1999年10月)、102頁〕。平氏の滅亡後、荘園は鎌倉幕府によって没収される。
現在は兵庫県神戸市兵庫区福原町(ふくわらちょう/ふくはらちょう)という地名があるが、福原町は明治以降に付けられた地名で福原京とは直接の関係はない。福原遊郭は東京の新吉原、京都の島原とともに「さんばら」「三ハラ」と並び称され〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、60頁〕〔長島『神戸昭和レトロ集』、162-163頁〕〔金治、先崎『神戸雑学100選』、82-83頁〕、遊郭の廃止後はソープランドなどの風俗店が密集する風俗街として有名になる。
この項目では、後述の福原町について記述する。
== 歴史 ==

=== 福原遊郭の成立 ===
1858年安政5年)に日米修好通商条約が締結された後、兵庫の市街地と神戸の外国人居留地周辺の有力者たちは現地に劇場遊郭を設置しようと、相次いで許可を求めた〔。そして1868年(明治元年)2月19日、明治政府から遊郭の設置が許可される。遊郭の位置は居留地と兵庫の街区の双方から外れた地点にある宇治川の河口付近右岸(宇治川尻、兵庫区川崎町1-7丁目〔 『角川日本地名大辞典』28巻、1324頁〕、ハーバーランドに相当する地域〔)に定められ、同年3月1日に工事が開始された。
1868年5月(もしくは11/12月)に遊郭は開業し、福原京にちなんで福原遊郭と命名された〔〔〔〔開港三十年記念会編『神戸開港三十年史』上巻(明治百年史叢書, 原書房, 1974年10月)、265頁〕。開業後に新たな妓楼が増築され、東京の新吉原同様に事務所が設置されて廓内の整備が進められる。1870年(明治3年)6月に大阪・神戸間を結ぶ鉄道敷設に伴い、駅舎(神戸駅)の用地として指定された地区には福原遊郭が含まれていたため、1871年(明治4年)5月に全ての妓楼が旧湊川堤の東の新福原に移転した〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、62頁〕。最初新福原と呼ばれていた町は、やがて福原町と呼ばれるようになる〔。
移転当時の新福原には、40軒の妓楼が存在していた〔神戸史学会『神戸の町名』改訂版、131頁〕。1872年(明治5年)に芸娼妓解放令が出された時には新福原も陰りを見せたが、翌年に「貸座敷」としての営業が認められ、遊郭は存続する〔。1873年(明治6年)、県は私娼を駆逐するために兵庫・神戸における妓楼(貸座敷)の営業制限を撤廃し、市街地での貸座敷の営業の自由を認める「散娼」政策を実施する〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、62-63頁〕。三宮栄町元町などには多くの妓楼が現れ、客が流出した新福原の貸座敷は7軒にまで減少した〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、63頁〕。その後、貸席(貸座敷)・娼妓・芸妓の営業に規制が加えられ、県は「散娼」政策を一か所に娼妓を集める「集娼」に転換する〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、64頁〕。1878年(明治11年)に新規の貸席(貸座敷)の開業は福原に限定され、市街地の貸席・娼妓は福原に集められた。1896年(明治29年)の台風で湊川が決壊したとき、福原も被害を受ける。
1897年(明治30年)当時の福原は106軒の貸席、913人の娼妓を抱えていた〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、64-65頁〕。さらに廓内と周辺には多くの飲食店や喫茶店が建ち並び、隣接する湊川新開地と共に一大歓楽街を形成した〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、65頁〕。福原は近隣の花隈と共に花街として繁栄し、一方で江戸時代からの花街である柳原(兵庫駅南)は衰退していく〔。
1906年(明治39年)の火事で廓の半分が焼失したものの好景気の影響を受けて栄え続け、1920年大正9年)には約2,200人の芸娼妓が遊郭に身を置いていた〔。
昭和初期には妓楼に洋風の建築様式、ネオンサインが取り入れられるようになった〔加藤『神戸の花街・盛り場考』、68頁〕。1930年(昭和5年)の『全国遊郭案内』には、当時の福原は95軒の妓楼に1,320人の娼妓がいたことが記されている〔木村『消えた赤線放浪記』、248頁〕。1932年(昭和7年)に神戸又新日報が実施した観光名所の人気投票「大神戸新八景」では、花街の部門で福原が一位に選出される〔新開地アートストリート実行委員会『湊川新開地ガイドブック』、113頁〕。第二次世界大戦によって町は破壊を被るが、戦後いち早く復興して活況を取り戻した〔。1955年発行の『全国女性街ガイド』には福原に431人の娼妓が所属していたこと、各地の赤線地帯の中でも衛生状態が悪い事が述べられている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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